《シリーズ対談》第10回「ゴルフは、健康を推進する夢のスポーツです」中嶋常幸プロ

鳥羽研二・東京都健康長寿医療センター名誉理事長・日本ゴルフ協会ゴルフ振興推進本部参与  この対談シリーズは、医学界や実業界などで活躍されている方々をお招きし、ゴルフがその方の人生、仕事、健康にいかに寄与しているかをお聞きして、ゴルフの素晴らしさを伝える目的で行っています。シリーズの締めくくり、集大成として、プロツアー競技(前身の試合も含む)で48勝を挙げ、日本ゴルフ協会(JGA)主催の「日本アマチュア選手権」「日本オープン」「日本シニアオープン」の三冠にも輝いている中嶋常幸プロにお出でいただきました。お忙しい中、本当にありがとうございます。

私は、中嶋プロのお父様、巌氏が作られた東松苑ゴルフ倶楽部(栃木)の会員でもあります。中島家で最初に知り合ったのは、常幸プロのすぐ下の弟さんである篤志さん(2020年死去)です。東松苑社長であった篤志さんは、ゴルフが健康作りに役立つのでは考えられ、国立長寿医療研究センターの島田裕之先生らが研究、推進していたコグニサイズ(運動をしながら頭を使うことで認知症予防などにつながる)についての研究発表を聞きに行かれたそうです。そういう経緯から、当時、東松苑の会員で国立長寿医療研究センターのトップだった私と篤志さんらで、ゴルフは物忘れや認知症予防に役立つという研究プロジェクトを一緒に取り組むことになりました。それが関東ゴルフ連盟、そして日本ゴルフ協会へと続くWAG(ウィズ・エイジングゴルフ)の活動につながっていきます。その際、中嶋プロには座談会や参加者集めなどでご尽力いただきました。改めて御礼を申し上げます。

中嶋プロは今年、ゴルフを始めて60年、つまりゴルフ歴で還暦になりましたね。

中嶋常幸プロ  確かに、そうですね。始めたのが10歳の時で、小学4年生の終わりか5年生の初めくらいでした。

自分は、大勢でワイワイ騒ぐより、自分1人か、せいぜい2、3人くらいで遊ぶ方か好きな子供でした。実は、小学生の時に、遊びで参加した野球で、すごく嫌な思いをしました。隠し球というやつです。このような卑怯なスポーツがあるのかって。団体スポーツは嫌だなと思っていた時に、ちょうど親父がゴルフを始め、練習に付いて行きました。止まっているボールが、いきなり生き物のように飛んでいく。しかも、親父は“七色の球”を打つのです。チーピンとかプッシュとか、テンプラ、ゴロとか。それを見ていて、他の人は真直ぐしか打たないのに、父親は天才だなと思いました(笑)。

鳥羽名誉理事長  お父様は、昔からずっとゴルフをしていたのではなかったのですね。

中嶋プロ  私が始める、せいぜい1、2年前からだと思います。

下手すぎたとこもあったのか、親父は他人とではなく息子と一緒にゴルフをしたかったのではないでしょうか。私がゴルフを始めて半年ほど経った時、コースに連れて行ってくれました。5月の雨上がりのゴルフ場で、緑がきれいで、空気もいい。とても新鮮な経験でした。

厳しかった父の教え

鳥羽名誉理事長  お父様がコーチだと思っていました。

中嶋プロ  コーチですよ。親父は、自分がうまくできないくせに教えてくれました。腕を伸ばせ、というのが最初の教えでしたね。肩と両腕で作る三角形を崩すな、と。

鳥羽名誉理事長  雑誌などを読むと、お父様はマナーにとても厳しい方とうかがっています。

中嶋プロ  確かに、それはありました。教えは厳しいし、一緒に回っている人に不快な思いをさせると、烈火のごとく怒ります。中学2年生の時、川越カントリークラブでのラウンド中、後ろの組の人が打った球が、私の背中に当たったことがありました。フォアの声もなかった。ハーフが終わって昼休憩でレストランに入ると、親父から「当てた人に謝ってこい」と言われました。なんで、当てられた人が謝らなければいけないのか、と普通は思いますよね。親父は「あの人は、お前に当てたことで、心配で、今日のラウンドが楽しいゴルフ、思い出ではなくなる。だから、『平気ですよ。心配しないでください』と話せ」と言うのです。そういう不思議な親父でした。

鳥羽名誉理事長  ご兄弟(篤志さん=トップアマ、和也さん=プロ・東松苑ゴルフ倶楽部代表、恵利華さん=プロ)も自然にゴルフを始めるようになったのですか。

中嶋プロ  兄貴である私がゴルフをしているのを見て、やりたくなったのでしょう。私が練習をしているのを見たり、打つのを休んでいる間に自分たちも球を打ってみたりするなど、弟たちも自然な感じでゴルフを始めました。

鳥羽名誉理事長  プロになったのは何歳の時ですか。

中嶋プロ  20歳の時です。17歳で全日本パブリックアマチュア選手権、18歳で日本アマチュア選手権に優勝。19歳の時に日本オープンのローアマチュアになりました。それで20歳の時、プロテストを受けました。

鳥羽名誉理事長  プロになって、翌年、もう優勝されたのですよね。

中嶋プロ  親父は、優勝しなかったら殺すぞ、くらいにハッパをかけてきましたから。(笑)

鳥羽名誉理事長  中嶋プロはツアー競技の48勝を含めて、プロで55勝も挙げる偉大な活躍をされています。輝かしい記憶だけでなく、負けた試合を思い出すことはありますか。

中嶋プロ  ありますね。どうして、あそこであのようなことをしたのか、と。

鳥羽名誉理事長  私どもは、どうしても中嶋プロが初めて海外メジャーに挑戦された1978年の全英オープンと、マスターズでの出来事を思い出してしまいます。セントアンドリュースで行われた全英オープンでは、3日目の17番ホール(パー4)で第3打のバーディーパットがバンカーまで転がり落ち、脱出に4打かかって、結局9打。オーガスタナショナルでのマスターズでは2日目、13番ホール(パー5)でクリークに2度、捕まり、13打を要しました。どちらの方が、より強く印象に残っていますか。

中嶋プロ  まったく五分五分ですね。マスターズでは、初日に出遅れました。2日目は、何とかアンダーパーにしたいと頑張ってきて13番を迎えました。ティーショットが池に入って、そこから打ったらまた池に入った。ハザードの中で地面をたたいたペナルティも付いて、もうスコアが数えられないくらいでした。マーカーである同伴競技者と一緒にずっと確認し合い、15番のセカンド地点でようやく自分もマーカーも13打という結論になりました。たたいた事より、スコアを間違えて失格になる方がもっと恥ずかしいことです。ですから、マーカーの選手と一生懸命、確認し合いました。

セントアンドリュースの方は、そこまで首位と2打差に迫っていて、優勝も狙える位置にいました。17番は難しいホールですけど、2オンに成功しました。日本では、パターで打った球がバンカーまで転がり落ちるなんて考えられない事です。それがバンカーに入ってしまいました。「何というゴルフ場だ」と思いましたね。そこから打てども打てども脱出できませんでした。

鳥羽名誉理事長  苦い思い出でしょうが、その後のプレーにプラスになる事もありましたか。

失敗から、何を学ぶか

中嶋プロ  ありました。一つは、お前はこれからも世界に挑むのか、それとも世界で戦うことは諦めるのか、というチョイスを迫られたことです。始めてのメジャー大会出場だったマスターズの時は、オーガスタというすごい場所に行き、周りもすごい選手ばかり。そこで13打をたたいて、ひどいスコアで予選落ちしました。もう諦めて、海外はいいや、と考えてもおかしくない。それじゃあ、お前はどうするのだ。尻尾を巻いて逃げるのか、さらにチャレンジするのかという選択を迫られました。

それで、もう一度、トライする道を選びました。そして、3か月後の全英オープンでは、3日目の17番まで優勝争いするまでになりました。だいぶ進歩しましたよね。進歩して、優勝争いの中に入った時に、足元をパーンとすくわれました。これがイギリスで、これが世界なのだよと、日本では考えられない事を突きつけられました。

でも、マスターズで大失敗した時に、それでも海外を目指そうというチョイスをしていたので、あの17番のバンカーを「トミーズ・バンカー」という名前を付けられようが、気持ちは揺らぎませんでした。

ただ、どうしてこのような失敗をしたかを考えると、それは自分が世界を知らなかったからだと思いました。それから、海外をいつも意識するようになりました。日本ではこうだという話ではなく、海外では違う。世界で戦うならこういうものが必要になる、と考えるようになりました。

鳥羽名誉理事長  あまり知られていない事かもしれませんが、中嶋プロは、世界ランキングで4位になっておられます。

中嶋プロ 1982年から、アメリカのツアーカードを取得し、88年まで7年間、カードを持っていました。世界ランキングで4位だったのは、85、86年あたりでした。マスターズで8位になったり、全英オープンでは最終日最終組で回ったりしました。

鳥羽名誉理事長  当時、日本と海外、両方の試合に出ながら、日本の賞金王になられています。4大メジャー大会すべてでトップ10入りを果たしたのは、日本人では中嶋プロが最初で、松山英樹プロが達成するまで、他に誰もいないという快挙でした。中嶋プロがメジャーを勝てなかったのは、運がなかっただけと言われています。

中嶋プロ  いや、私が勝てなかったのは、アメリカと日本の両方のツアーに出ていたのがダメでしたね。松山のように、アメリカだけに専念していたら、多分、勝てたと思っています。英樹(松山)が、アメリカツアーに行く前の年に、来年、日本のツアーカードを受けるか受けないかという話になりました。受けると、出場義務試合数という縛りがあります。その時、私は「アメリカに専念した方がいい」と言ったのは、自分の経験からでした。

アメリカで何試合か出ていい感じになって日本に戻ると、高麗芝になる。やはり違うのです。アメリカのコースだと、ティフトン芝だったり、ケンタッキーブルーグラスやバミューダのラフがあったり、ベント芝があります。そこにせっかく慣れたのに、高麗芝や野芝に戻るとまた感覚がマヒしてしまいます。行くなら、日本を捨てて、ドップリ向こうに行けばよかったと、今は思います。

鳥羽名誉理事長  生まれ変わったら、また海外に挑戦しますか。

中嶋プロ  行きますね。賞金がまったく違うじゃないですか。(笑)

鳥羽名誉理事長  18ホールの中で、どうしても調子の波が出て崩れる時間帯があるのですが、プロはどうやって修正、対処しているのでしょうか。

中嶋プロ  1ラウンドの中に、流れというものは確かにあります。我慢する時、攻める時、というものです。ゴルフのゲーム性から、否応なしに訪れます。その時、基礎点というか、底力、本当の力を鍛えている人間と鍛えていない人間で、違ってきます。今の松山選手が一番いい例です。海外に行き始めたころと今の松山選手の体はまったく違いますよね。朝の4時に起きようが、日没まで回ろうが、サスペンデッドになって翌日、また4時に起きようが、平気な体を作っているわけです。ところが、そこまでのトレーニングをしていない人間、体ができていない人は、へたってしまいます。18ホールの流れの中で、いい時も悪い時もあるのがゴルフで、選手も含めて万人に訪れます。そこで今一度、立ち上がる力があるかどうかは、普段の過ごし方にかかってきます。押しても引いてもビクともしない。そういう選手にならないと、その日の波だけでなく、もっと大きな波に巻き込まれてしまいます。もう、今年はダメだとか。でも、本当にゴルフ向きの体と心になっていれば、その日一日でも盛り返すことができるし、スタートで出遅れても最後は優勝争いに加わることができます。そういう選手は、1年間を通してみれば結局、何勝かします。

鳥羽名誉理事長  先ほどお話しいただいたセントアンドリュースの17番ホールですが、私がプレーした時の自慢は、ホール右横のホテルに打ち込んだことです。(笑)

中嶋プロは、毎年、マスターズの解説をされていますが、ジョーダン・スピースが2016年のマスターズ最終日、5打差をリードして迎えた12番(パー3)で、(中嶋プロと同じく)クリークに2度、入れて連覇を逃すことがありましたよね。

中嶋プロ  実は、ロリー・マキロイも、グレッグ・ノーマンも同じ事をして優勝を逃しています。マキロイは11年の最終日、10番のティーショットで左のコテージ脇の林に打ち込み、トリプルボギーをたたきました。1996年のノーマンも最終日に崩れました。スピースを含めて、3人ともダメになった原因は、アウトの8番、9番にあります。最終日、ここで失敗すると、後半の流れが悪くなります。狙わなくてもいい所を狙ってしまうようになるのです。

21年に松山選手が優勝した時、12番で「絶対、左に打ってくれ」と願っていました。「ピンの方向に色気を出してはダメ。バンカーでもいいから、とにかく左に打って」と。松山選手はしっかりと左の方に打った。だから優勝できたと思っています。

1メートルでも2メートルでもピンの方向に打ちたいという誘惑に負けると、スピースになってしまいます。スピースは決断が甘かった。左に外して、寄らなくてボギーでも良かった。優勝する人は、徹底できる人なのです。

松山選手もあの時、少し危なかった。15番で池に入れて、4打差があっという間に2打差に縮まりました。池に入った後の4打目のアプローチは、多分、人生で一番難しいアプローチだったと思います。

鳥羽名誉理事長  そういうゴルフの経験値があり、選手の気持ちがわかって解説をしていただくので、面白い。今年も春が来ると、中嶋プロの解説が聞けると楽しみにしています。

中嶋プロ  松山選手は今、32歳です。自分が32歳だった時と比べると、松山選手の方がはるかに大人だと考えています。その年代、年代の生き方があると思います。20代、30代のころは競技オンリーで、強い事が一番だとか。他の分野の方もそうでしょうけど、その時、やるべきこと、こうあるべきということがある。問題は、これから松山選手が何を学習していくかでしょう。

自分も、いろいろな失敗をしてきました。人を傷つけてしまうようなことをしたり、社会的なイベントで大失敗をしたりとか。なんであのような事を言ってしまったのかと夜も眠れなかったこともあります。それが、自分には良かったと思います。反省できないと、変われないし、そこで終わってしまいますから。

マスターズの解説を初めてしたのが49歳の時です。最初の3年間はひどいものでした。実は2年目の時、アナウンサーの松下賢次さんと解説の岩田禎夫さんが、自分の解説の邪魔をしていると腹を立てていました。「マスターズは二人の言うようなものではない。この二人はわかっていない」と、打ち上げの時、悔し涙が出て、思いをぶつけた事がありました。その半年後、家内から「お父さん、録画を見てみたら?」からと言われました。帰国してすぐだと腹が立っているから、冷静な判断ができないことが家内にはわかっていたのでしょう。見て、愕然としました。この中継をダメにしているのは二人ではない。自分でした。翌年も解説の話をいただいた時に、二人に謝りました。自分が悪かったと思えるか。あるいは自分がどうしなければいけないかを勉強することが、大切なことだと考えています。

強く優しい子を育てるためにアカデミー創設

鳥羽名誉理事長  そうした経験を積み重ねる中から、技術だけでなく人間性も育てる「トミーズ・アカデミー」の構想が出てこられたのでしょうか。

中嶋プロ  アカデミーをなぜ、始めようと思ったかというと、ちょうど中学生の自殺が多い時代でした。世の中から、イジメってなくならないではないですか。いつの時代も。子供だけでなく大人になってもイジメはあります。イジメられても負けない子、そしてイジメない子を育てたいと思いました。その目的に、ゴルフはうってつけのツールです。逞しくなって欲しい。強くて優しい子になってもらう事を目指しました。

別に将来のプロを育てるとか、競技者向けオンリーの教育ではありません。世の中に出ていって負けない子、人に優しくできる子を育てたい。これはアカデミーの副題です。主題は、世界に出て活躍できる子を育てることです。森ビルの社長だった森稔さんにも、その考えをご理解いただき、全面協力を受けてやれています。

鳥羽名誉理事長  アカデミーからは、畑岡奈紗さんをはじめプロで活躍されている選手が何人も出ています。ただ、プロにならなかった子も、中嶋プロの教えを受けて、強く、しっかりと生きているということですね。

中嶋プロ  普通に高校、大学と進み、社会人になった子からも、「こういう所に勤めました」などメールで連絡をもらいます。今、卒業生は230人くらいいますが、その中でプロになった子は一部です。ほとんどは一般の社会人になったり、ゴルフを続けていきながらゴルフ関連の仕事に就いたりしています。ゴルフを基に、みんなが元気に社会で生きているのが、一番うれしいですね。

鳥羽名誉理事長  アカデミー生以外でも、山下美夢有プロの面倒も見たそうですが、技術的なことですか、それとも精神面の話ですか。

中嶋プロ  技術半分、精神的なことが半分です。技術が間違えていたら、いくらやってもうまくなりません。後は、惜しくも負けた時など、次は必ずチャンスがあるから、など、支えてあげる言葉が大事だと思っています。励ました方がいい時と、今はガツンと言った方がいいと思う時があります。お前が活躍すると思っている人なんて誰もいないから、思い切ってやれよとか、いろいろな言い方があります。

鳥羽名誉理事長  勝負の世界ですから、いい時よりも、どちらかというと悪い時の方が多いですよね。我々アマチュアは、いくつ打とうが、次のホールに行けばニコニコできます。でも、プロは、精神的にも大変だと思います。

中嶋プロ  若手に贈った言葉で、一番、記憶に残っているものがあります。朝、スタート前に風呂場でストレッチをしますが、初優勝がかかる位置にいて、みんなに励まされていたある選手が、「どうせ勝てないさ。途中でダメになって、惜しかったなんて言われるのだろうな」と言っていました。ものすごく腹が立ちました。親しいプロではありません。でも、そばまで行って、「お前、この日のためにプロになったのだろう。嫌だったら辞めろ。プロになったこと自体が間違っている。逃げるな」と言いました。選手は、前を向けるといい結果を出します。不安があって、後ろを向いたら勝てません。恐怖に対して、ちゃんと向き合うと戦えるのです。その選手が優勝した時、すごくうれしかった。選手も「あの言葉で吹っ切れました」と感謝の言葉を言ってきました。

鳥羽名誉理事長  それは、負けた試合の数が山ほどある中嶋プロだからこそ、言える言葉でしょうね。

健康の事について、質問します。プロゴルファーは、腰、膝を痛める事は職業病でもあると言われていますが、中嶋プロは長い間、どこかを痛めたような話は聞きませんでした。何か秘訣があったのでしょうか。

これからもゴルフ人生を大いに楽しむ

中嶋プロ  確かに、私は、けがをするまでは丈夫なほうだったと思います。けがにつながる一番のきっかけは、2010年1月、青森で交通事故に遭ったことです。タクシーのトランクから荷物を出している時に、後ろから来た車にはさまれました。右のふくらはぎの筋肉が断裂し、骨折はしませんでしたが、足が倍くらいに膨らみました。休めば良かったのに、5月の試合に出ました。バランス悪く歩いているうちに、今度は左膝を痛めて、手術をしました。半月板を半分くらい削りました。

次に、コロナ禍の時、木を切る作業をしていたら、右肩の棘上筋を全断裂し、棘下筋は中断裂。左肩も、棘上筋を半分、断裂する大けがをしました。いろいろなお医者さんに相談しましたが、半分の医師からは手術を勧められ、半分の医師からは手術しても完全には治らないと言われました。手術をすると、右と左で計1年間はゴルフができなくなります。60歳代で1年間、棒に振ることはできないと考えました。それで、手術はやめて、PRP注射(自分の血小板を使って、再生治療する方法)など様々な治療をしました。幹細胞治療もしました。幹細胞治療は効きましたが、その後、リュウマチっぽくなりました。診断法があって、自分としてはリウマチ性多発筋痛症だと思いました。幹細胞は、サイトカイン(異物から体を守る働きをするホルモン様の低分子たんぱく質)を出します。自分の体からも治そうとしてサイトカインを出しているし、コロナワクチンも注射していました。そこで、サイトカインストーム(サイトカインの暴走)が起きたと思っています。全身に痛みが出て、腫れてしまいました。

鳥羽名誉理事長  それは1年くらいで治られたのですか。

中嶋プロ  1年か1年半で、治りました。今は、まったく薬は飲んでいません。

ただ、今の一番の問題点は、左膝です。バランスが非常に悪くなりました。痛みもあります。幹細胞治療の先生に「注射をするより、一番の治療法は筋肉を取り戻すことです」と、トレーニングの大切さを説かれました。それで、今年1月、エアロバイクを買いました。1000人もの競輪選手が自宅に備え付けているという本格的なもので、ほぼ毎日、漕いでいます。エアーや磁力で負荷がかけられて、太ももの筋肉が鍛えられますが、実は今日、ラウンドしていて、ふくらはぎも鍛えないといけない事に気付きました。痛みはあるのですが、嫌な痛みではなくて、これは鍛えれば何とかなりそうだ、いけるぞという痛みです。そこまで体が変わってきたのだと思います。

鳥羽名誉理事長  永久シードの資格をお持ちですが、シニアだけでなく、レギュラーツアーにも挑戦されるお気持ちはありますか。

中嶋プロ  いや、レギュラーツアーは卒業です。後輩に道は譲るべきだと考えています。能楽の世阿弥が遺した「風姿花伝」という本の中に、引き際の事が書かれています。年を取ったら、どれほど花形の人であろうと後輩に道を譲りなさい。一瞬の芸なら若手に負けないかもしれないが、それ以外は勝てない、というものです。

それは、ジュニア選手を育成するという事に、通じるかもしれません。いずれ、彼らが主役になっていきますから。一発のアプローチ、一発のショットでは、中嶋はすごいと思ってくれるかもしれません。でも、72ホール続けることは、もう無理です。ただし、シニアの試合は、同窓会ですから。出ることを楽しみにしています。

鳥羽名誉理事長  ゴルフは、心と体にプラスになるスポーツだと思っていますが、中嶋プロはどうお感じですか。

中嶋プロ  ゴルフは適度な運動で、歩き、考え、人とのコミュニケーションも取る。しかも、そこには笑いがあります。これほど健康的なスポーツは、他にありません。ゴルフは、健康維持、増進を推進する、まさに夢のスポーツです。

鳥羽名誉理事長  本当に、本日はありがとうございました。シニアツアーでのご活躍を祈っていますし、マスターズでの解説を楽しみにしています。

中嶋プロ  マスターズの解説は今年で卒業しますが、これからもゴルフ人生を大いに楽しみたいと思っています。

 

取材/文・髙岡和弘(情報シェアリング部会・委員)

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